先週、老人保健施設で5日間実習してきました。
夕方、その日の実習が終わっての帰り道。
残暑と疲労で朦朧とした頭の上では蝉時雨。
地面に散在する死骸、そして植え込みに目をやると
そこには蝉の抜け殻。
「空蝉」(うつせみ)、蝉の抜け殻のこと。
「空蝉の」は人、世、命などにかかる枕詞。
万葉の昔から諸行無常の儚さを表現する言葉として使われてきた。
あくまで死骸ではなく抜け殻なのだ。
ふと、空蝉は蝉が抜けてきた殻ではなく、
蝉が抜けていった抜け殻なのではないかと考える。
蝉の一生を考えれば蝉が蝶や鳥のような空飛ぶ生き物と考えるのは間違いであることに思い至る。
蝉はミミズやモグラと同じ仲間の地中で暮らす生き物なのだ。
そして蝉は「老い」を知らない稀有な生き物だ。
人は生まれ、成長し、恋をして、結婚し子を育て、やがて老い、そして死んで行く。
人生をいかに謳歌しようとも、やがて例外なく身は衰えて死んで行く。
見えなくなり、聞こえなくなり、歩けなくなり、食べられなくなり、
しゃべられなくなり、やがて考えることすら出来なくなり闇へと帰るのだ。
「老い」とはそういうものだ。
人に限ったことではない。
生きとし生けるものの定めである。
ところが、あろうことか蝉は衰えることを知らずに死んで行く。
暗い闇の中で一生を過ごし、最期に
抜け殻を残し別の姿に生まれ変わる。
あまりにもわずかな時間ではあるが、大空を飛び回り
おいしい樹液を吸い、大声で歌いながら恋をし、子孫を残し
そして突然、地面に落ちて死ぬ。
枕詞の「うつせみの」は「現世人の」とも書く。
古来、蝉の抜け殻を見て人は
儚い蝉になりたくなかったのではない。
蝉が儚いのではないからだ。
蝉になりたくてもなれない我が身が儚いのである。